福山ゆり著「世界を動かすユダヤ人の子育て14の秘訣」
ユダヤ式の家庭教育を知ることで、実践する人が広まれば世の中の問題を解決することができる考え方になると感じた一方で、親としての在り方についても考えさせられるきっかけになった
自分で決める
世の中に絶対の正義はない。人の数だけ正義は存在するし、考え方は時代と共に変化する。だから人の言うことに流されてはいけない。これが原点だ
人の言うことに惑わされるということはその人の正義、考え方を信じてしまうということだ。でもそれが正しいとは誰も言えない。自分の人生は自分で決める。そして自分の決断には自分で責任を持つ
人の言うとおりにして、うまくいかなければその人を責める。批判するのは簡単だ。でもそこにもその人の言うことを信じる(もしくは自分で決めないことを決めた)という自分の決断は入っている。決断していることをあまり意識しない消極的な決断だが、結局決めているのは自分なので本来批判は的外れだ。日々の生活の中ではそれほど意識しないかもしれないが、自分の人生に影響を与えるようなことであれば批判するだけではすまない。そして後悔することになる。消極的な決断で後悔するような人生ではもったいない
自分の人生は自分で決める。当たり前のことなのに当たり前にできないことに問題がある。なぜか。自分で考えられないからだ。決断の前にしっかり考えられないからまわりの価値観を自分の価値観と勘違いしてしまう。考えることをやめてしまっているのかもしれない。その方が楽だから
ここに本質があるのではないかと自分の考えが行き着いた。ユダヤ人は昔からこの本質を理解していて、だからこそ生き抜く知恵として教育方法を受継いできたのではないかと考えさせられる
決められた枠組みに流される
自分で考えて決断する。そのために必要なのが自分の価値観の軸と考える力だ。現代では人生において職業という名のレールが何本も用意されている
どのレールを選択するかということにみんな目を奪われているから、根本的な問いかけを忘れている
- 何のために働くのか
- 何のために勉強するのか
- 哲学的になってしまうが、行き着くところは何のために生きるのか
職業という名のレール
人生のレールが敷かれているから行き先はある程度の見当が付く状態というのが、今を生きている多くの人たちの状況ではないだろうか。何よりレールを選ぶだけなら、その後はレールに乗って行けばいいので楽だから。そしてそのレールは今は職業という形で用意されているということではないだろうか
人生の本質について考えればもっといろんな可能性が出てくるはずだが、考えられないのは、そのための教育を受けていないこと、そのスキルを持っていないというのがやはり一番大きいのだろう。更にもうひとつ、生計を立てるという土台が必要だという前提だ。生きていくための生活がベースにあり、経済的に自立できていることで初めて新しい選択の幅を広げることができる。だから経済的自由を達成することを考えないといけない
本質を忘れられたイベント
今の世の中ではほとんどのものが形式になってしまってはいないだろうか。その成り立ちを知らずに、疑問も持たず形だけをなぞっている。形式的になっているもののひとつに成人式に代表されるイベントがある。古来成人になるための通過儀礼として元服の儀式があったが、固定の年齢で行われるものではなく、一定の年齢幅の中で成人するに足る素養が備わったタイミングで行われていた
現代では成人としての素養について考えられることはないように感じられる。20年生きてきたことをもって成人とみなされる。もちろん義務教育による一定の教養と学校生活で社会性を身につけていることなどが想定としてあるのかもしれないが、年齢で決められる成人という考え方は本質からずれてしまっているのではないかと改めて考えさせられる
資本主義の進んだ現代ではビジネスのマーケティング戦略に乗せられて形式化されている要因も大きいと思うが、成人式に限らず、結婚式や葬儀等のイベントについても改めて「なぜ」と問いを発することで見えてくるものがあるはずだ
ルールの盲信
ルールを盲信するのも考えることを放棄している表われになるだろう。目的と手段が入れ替わってしまうということに通じるものがある。
なぜそのルールがあるのか、その本質を理解していないと納得感は得られない。納得感がないと押しつけられる感覚になり、ネガティブな感情が先に立ってうまく物事が進まないという流れができてしまう。本質を理解した上で考えれば、そこから改善すべき点が見えてくる。
ルールは絶対に守るべきという立場で考える人と本質を見据えて考える人では、立ち位置が異なるのでそもそも議論がかみ合わないということが起こる。「なぜ」を問いかけることが当たり前であれば、問題の本質を解決するよりよい結論にたどり着けるのに、かみ合わない議論ではエネルギーだけが無駄に消費されることになる
本質を見極める
日常生活の中ではひとつのことに対して深く問いかけるという営みはしていない(できていない)なと思う。「なぜ」と問いかける営みが習慣になっていない、考える時間的な余裕がない、考えるこころの余裕がない、問いかけのやり方が分からない、など理由はいろいろ思い付くが、そもそも深く問いかけることを意識していないということだろう。なんて表面的な生を生きているのだろうか
本質に意識を向けるために深く問いかけることを習慣化させるところにユダヤ式教育の神髄がある。子どもに「なぜ」と問いかけることにより、答えに至った考えの道筋をたどらせ、理解を促すことができる。それを繰り返すことで問題の本質に近づいていく
子どもは物心ついたころに好奇心で「なぜ」と親に問いかけるが、親は考える力を養わせるために「なぜ」を子どもに問いかけることが必要だ
親から受継ぐもの
社会問題の本質
価値観が正しく認識されれば世の中はもっとうまくいくのではないだろうか。そのためには子どもの教育が鍵だ。子どもに正しい考え方を身につけさせることができれば世界が生まれ変わることができる可能性が生まれる
一方で、正しい考え方はひとつだろうか、画一的になるだろうか、面白みのない世界になるだろうか、考え方もバランスなんじゃないだろうか、などと考えてしまうのがいいことなのかよくないことなのか…
社会性や人間性がしっかり身についていない人が一人前の人ととして扱われてしまうのが今の社会だ。そんな中で人間関係の問題が発生してトラブルに繋がる
人の振る舞いの乱れにより社会的な問題となる事象の本質は教育にあると思う。それもスキルを身につける明示的に受ける教育ではなく、家庭環境やまわりの環境から受ける社会性や人間性に関する、暗黙的に身につけていく教育だ。
特に親の役割は重大だ。身近な親の影響は大きい。家庭の乱れが歪んだ教育として子どもに影響を与え、社会の乱れに繋がっていく
家庭教育の問題
親の背を見て子は育つというが、親の見せる行動が子どもに大きな影響を与えている。その意味でも子どもには人生の見本、生き方の見本を見せてあげないといけない
立派なことを言っても行動が伴っていなければ悪い見本になってしまう。親は自分ができないことを子どもに求めるべきではない。あるべき姿は自分が実践して示さないといけないということを改めて感じる
子どもの振る舞いは親の振る舞いを省みる鏡だ。よくない振る舞いをしているのなら親は叱る前に自分の振る舞いについて考えてみるべきだ。子どもは真似ることから始めるものだ。自分が子どもの前で同じような振る舞いをしたことはないだろうか
もちろん、子どもが保育園や幼稚園、小学校と集団生活をするようになると、まわりの影響も受けるようになる。環境から受ける影響は大きいので、いい環境を選ぶことを心がけないといけない。それでもよくない影響を受けた場合には都度家庭の中で修正できるような営みが必要だ。ユダヤ式の家庭教育はそのための仕組みを用意してくれている
親はただ勉強しなさいと促すだけでなく、社会性、人間性を磨くために子どもと一緒に勉強するという姿勢が必要だ
親の責任と在り方
子どもは親の行動を見ている
親は子どもの目をしっかりと意識して行動しないといけない。もちろん完璧な人間はいないからいつも聖人君子のように振る舞うことはできないけれど、人への接し方や言行一致した振る舞いなど、社会の基本単位として家庭の中で親は人生の見本、生き方の基本を子どもに見せないといけない。それはすなわち親の生き方が問われているということだ
子どもがしっかりと人生を歩むことができるようにしてあげたいと思うのであれば、自分がしっかり生きる姿を見せてあげることが親の責任だ。自分はだらけているのに子どもにはしっかりしろと言うのはナンセンスだ
これまで引継がれてきたことを子どもに伝えるとともによりよい人生を送ることができるように一緒に学び続ける姿勢を見せる。ユダヤ式の家庭教育というのは子どものための教育であると同時に親も学び続けなければいけないということを伝えているように思う
ユダヤ式教育とジレンマ
何のために結婚して子孫を残すのか、家庭の意味は?ここにも本質に迫る問いがある
ユダヤ人にとっては旧約聖書(トーラー)とタルムードがその答えになっているのだろう。そして永きに渡り引継がれている
受継がれてきたひとつの模範回答
ユダヤ人の子育ては考える力を育てるのにとても役に立つ。そしてその考え方とともに人に対する振る舞いを学び、行動原理として意識できるようになる。そうして身につけた行動原理で振る舞う人が増えれば回避できるトラブルが増える。ユダヤ式教育の考え方が広まれば、世の中の問題が解決する方向に向うのではないかと期待させてくれるひとつの方法論だと思う
タルムードのひとつひとつの話を題材にして対話しながら、事実を確かめ、自分ならどうするかを考え、なぜそう考えるのかを問いかけて想定を広げ、他にもっといい回答がないかを考えて導き出す
これを習慣として繰り返して実践することができれば、考える力を育てるだけでなく、コミュニケーションを通したいい親子の関係や家庭環境を築くことにも繋がる。とてもいい教育法だ
世の中の流れにどう向き合うのか
時代とともに価値観は変化する。トーラーやタルムードに基づく家族や性に関する価値観など、現代見直されてきている価値観とどう折り合いをつけていくのだろうか
ユダヤ式の子育てはとてもいい考え方なので取入れられるところは見倣っていきたい。宗教的な縛りが少ない我々にとってはいいところを取入れるという方法は取りやすい考え方だが、生き方そのものとしてトーラーやタルムードを引継ぐのは大変なことだろう
よりよく生きるために共通して語られていること
いろいろな本や先人の教えで語られる大切なこと、そしてここで語られていることも含めて共通しているのは自分の軸をしっかり持つことだ
自分の人生を生きる上での考え方の軸(価値観)をはっきりさせる。そのために必要な情報を仕入れて考える
軸が決まれば、まわりに流されず、他人の人生ではなく、自分で決めた自分の人生を生きることができる
タルムードの教えに興味を持ったことから、ユダヤ人の子育てという本を手に取り読み進めるうちに教育、家庭、親の役割などいろんなところに思考が広がって、考えさせられた。考えるきっかけを与えてくれた出会いに感謝だ
ひとこと
ひとは必要なときに必要な年齢でいられないものだ。幼児期の教育としてとてもいい情報に巡り会えたが、既に息子にとっての幼児期教育の時は過ぎ去っている
それでも学びは多い。タイミングは違っても今が人生で一番若いときだから、知ることができた今から少しでも活かしていこう。親として子どもに生き方を示す時間は続いていく
そして一緒に学び続けることが大切なのだから